就農のきっかけと、これまでの歩み 今から35年以上前、当農園主の橋本昌康は名古屋でサラリーマンをしながら、公害問 題で苦 しむ方々を支援する活動に取り組んでいました。 当時、公害で海を汚染され漁ができなくなった水俣の元漁師の方々が、陸に上がり「化学的な薬を使いたく な い」と作った無農薬のミカンを、橋本昌康は仕事の終わった夜に自分の車に積み込んで、名古屋近郊の理解ある方々のお宅に売って回っていたのです。 そういった活動を通じて、食の汚染に関心を寄せる理解者の方々や、妻である橋本裕子と出会います。 「生活を便利にするために汚した空気や水は、私たちの口に戻ってくる。」 「食が汚染されれば、人が汚染され、それが社会そのものの歪みになる。」 「食の安全について、もっと真剣に取り組まなければいけないのではないか。」 「子供に地に足のついた生き方を見せたい。」 と、就農を決意し、妻 裕子と共に会社を辞めて脱サラ。 妻 裕子がもともと養鶏の業界雑誌の記者をしていたこともあり、養鶏業界の現状と安心安全な養鶏のあり方に関心を持っていた二 人は、長女の産まれる1981年に愛知県南知多町内海に移住。とりのさと 農園を始めました。 二人とも農業経験はほとんど無く、ノコギリ・ナタ・カマしか無い状態で、内海の山奥にある荒れ地を自分 の手で開墾し、そこに鶏舎と作業小屋を独学で建てて、平飼い養鶏をスタートしました。 知人の新聞記者が農園を紹介する記事を新聞に載せてくれ、「家 屋を解体して出た廃材を引き取りに行きます」と、鶏舎を建てるのに必要な材木を調達する 助けをしてくれて、愛知県中を廃材の引き取りに回ったりもしていました。 それにとどまらず、農園を始めるにあたり、それまでの社会活動で知り合った多くの理解者の方々に厚くご 支援いただいたことは、言うまでもありません。 |
昌康35歳、裕子27歳。 長女の由岐穂、0歳。 鶏舎と共に建てた作業小屋。 |
開墾前の荒れ地 |
開墾のようす |
柱を埋めて骨組みを組む |
鶏舎が完成。 |
完成した鶏舎にて
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就農から5年後。鶏糞を利用した野菜づくり、循環型農業をスタート。 1986年に、同じく南知多町内の現在の土地に移転。 もとの山の土地で鶏の飼育もしながら、この地で、また一から鶏 舎を建てました。 鶏舎には新たに上水と下水を自力で引いて、車での作業がしやすいよう2つの鶏舎が対になった形状での改良型を 考案し、土日には仲間たちの手も借りて建て ました。 この建設と同時に農地も広げ、「無農薬・無化学肥料栽培(無認証)」の野菜作りを本格的に始め、現在の循環型 の農業を営むに至ります。 2010年 とりのさと農園が生まれ30周年。そして長女の由岐穂が30歳を迎えるのを機に、連れ合いの 秦 俊之 と共に帰郷。 現在、若い二人が二代目の後継ぎとして修行中です。 |
新しく鶏舎を建てる。骨組みのようす 8棟の鶏舎が完成。 |
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